林業浜松

【昭和の浜松林業】鉄人Yさんから聞いた話を紹介します

kitajin

どうも、元フォレスト ワーカーのkitajinと申します。

本記事では、以前一緒に働いていた鉄人作業員 Y さんから聞いた、昔の浜松林業の話を紹介したいと思います。

昔といってもほんの70~40年前の話です。

林業に従事している方は知っていると思いますが、昔の林業は今と比べ物にならないほど、ハードでデンジャラスな仕事でした。何しろ、防護服はおろか、ヘルメットも被らずに作業をしていたのです。

労働災害も今と桁が一つ違っていました。

そんな時代を生き抜いてきたYさんの話を聞くことにより、林業の歴史を感じてもらい、林業に対する理解を深めてもらいたいという願いから、この記事を作成しました。

ぜひ、最後までごらんください。

この記事を書いた人

kitajin
  • 静岡県浜松市で10年間林業に従事

(素材生産業者で伐採を主にやっていました)

  • 林業に関する基本的資格はすべて取得

(林業架線作業主任者の国家資格取得者)

  • 林業の情報を発信したくて林業ブログを運営

(運営歴1年の新人です)

林業の魅力や重要性などを実体験を通して発信していくつもりなので、林業に転職を考えている方は参考にしてください。

※本記事には、プロモーションが含まれています。

昭和の浜松林業

ロシアから木材を仕入れていた

Yさんは、ボクと働く前は、天竜の材木会社で、主に、材木の買い付けに携わっていたそうです。

ロシアから木材を船で輸入していて、ロシア人と交渉をしていたそうです。

彼らから、ウォッカをもらったり、クマの毛皮で作ったコートをもらったりしていたみたいです。

代わりに 日本のお菓子などをやると喜んだそうです。

チェーンソーは鉄でできており20㎏くらいあった

昔のチェーンソーは、鉄でできており、重 20キロぐらいあったそうです。

しかも、今と違い振動を緩和するようなクッションがついていなかったせいで、振動が直接手に伝わり、白蝋病という振動障害になることが本当にあったそうです。

今でも、白蝋病の健康診断は義務化されていますが、昔は本当に手が真っ白になり、指を失った人がいたそうです。

杉1㎥で10人工雇えた

Yさんは、林業がいい時代を知っていたので、当時の木の安さを嘆いていました。

今から十数年前は、杉1㎥が10000円を切っていました。

Yさんが言うには、材木の値段が一番良かったという時代では、並材と言われる物でも1㎥で、10人工を雇えるほどの利益がでたいう話です。

そういう時代を知ってる人から見れば、確かに現代の木材が安くなったと嘆いても仕方がないかもしれません。

一本幾らの請負をしていた

昔の林業作業員は、固定給ではなく、1本あたり幾らで仕事を請けていたそうです。なので、とにかく早く伐ることが優先されて、安全は二の次でした。

だから、労働災害が非常に多かったようです。

しかも、防護衣なし、ヘルメットも被っていなかったのですから、相当、危険だということは容易に想像できます。

かなり深くまで掘って根っこをあらわにして伐採をしていた

昔は、木に価値があったので、根元ギリギリのところで、伐採をしていたといます。

ギリギリといっても、地面を掘れるだけ掘って、根っこまであらわにして伐採していたのです。だから、よく石を切っていたと言います。

現代は、根元の部分は、根ばりがついているので切り捨てて、真っ直ぐの幹だけを利用します。

また、切り捨て間伐などの利益にならない木を山に置いておくというやり方をYさんは嘆いていました。

肩で材木を担いで山から下りる人がいた

昔の搬出方法は、牛馬やソリ、人の手などです。

材木を担いで山を降りる人が専門にいて、彼らは、100キロぐらいの丸太を担いで山を降りていたそうです。

彼らは筋骨隆々で、肩に毛が生えていたといいます。また、材木を担いで山を下りる時には、いつも同じところを同じ歩幅で歩いていたので、足跡が深く残ったといいます。

自分の歩くところを踏み荒らされたりすると激高したそうです。

材木は天竜川に流して運んでいた

昔は、トラックなどがあまり普及しておらず、また林道なども整備されていなかったので、山から下ろした出した材木は天竜川に流して、その川下にある会社まで運んだそうです。

会社では、川岸に土場があり、天竜川から流れてくる材木を引き寄せて岸に浮かべていたそうです。

しかし、川に材木を浮かべていたので、大きな台風が来ると、町の方まで材木が流されて大変な被害にあったといいます。

線を張れば、何年間も同じ山で仕事をしていた

昔は、架線集材が主であり、しかも、間伐をやる場合は、1つの山に一気に線を張り、運材と言って、ものすごい長い架線を一本張って、そこから枝葉のように線を張って、材木を山から下ろしていたそうです。

主線を1本張れば、何年もその山で作業をしてたといいます。

車のエンジンをバラして架線集材の装置を自分で作った

運材で使う架線の動力として、車のエンジンをバラして使っていたと言っていました。

自分で作った自家製だそうです。

それが、やがて機械屋に注文をして本格的に林業の集材機のような形のものができるようになったと言っていました。

つまり、自分が集材機を発明したというのです。

子供の頃は日が暮れるまで枝を集めていた

Yさんの子供の頃は、電気もあまり通っていなかった時代なので、山に枝葉を取りに行かされたといいます。

学校終わりに、日が暮れるまで山に入り、枝葉を集めて帰ってくるということが日課だったそうです。

Yさんだけが特別ではなく、山間部の子供たちはみんなやっていたといいます。なので、山間部に暮らすお年寄りたちには、働き者が多いのでしょう。

いろんな人が山に入ってきて枝葉などを持っていった

昔は、山は資源の宝庫でした。

山間部に暮らす人たちは、林業の作業現場まで足を運び、そこに落ちている枝葉を拾い集めていたと聞きました。

どんなものでも、何かに使えるので、いろいろ集めて、家に持って帰ったり、売ったりしていたそうです。

なので、山には何も残っておらず、とても綺麗だったそうです。

現代の、必要な部分しか持っていかず、あとは全て山に残しておくのと大違いです。

うさぎを車で轢いていた

Y さんは、山の中で動物に遭遇すると車で轢いて、死骸を持って帰ったそうです。

特にうさぎやキジなどは、よくひき殺したといいます。

ウサギを轢いた現場は見たことないのですが、一緒に働いている時に、シカと遭遇して捕まえようとしたが失敗したという話を聞きました。

上手いこと車と岩壁の間に挟んで、逃げられないようにして捕まえたのですが、シカにヘッドロックして、軽トラの荷台にあるロープで縛ろうとしたのですが、力比べに根負けして、諦めて逃がしたといってました。

なぜそこまでして、締め落とさなかったのか疑問ですが。

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最後に

昔の林業を知ると、今以上に厳しい世界だったように思います。

確かに、今のような高性能林業機械はなく、体を使っての作業が多かったのだから、そう見えます。

しかし、実際の労働時間としては、今より短かったと聞きました。

昔の作業員の仕事は、山に入ってから、まず最初にお茶を沸かしてのんびり雑談をあと、9時ぐらいになったらチェーンソーの刃を研いで作業をはじめ、11時になったら昼飯を食べる。たっぷり2時間休憩したあと作業を再開して、3時ぐらいに30分のおやつ休憩に入り、4時半には仕事を終わったといいます。

それに比べ、ボクが働いていた時は、10時と3時に10分間の休憩と、昼に1時間の休憩を取るだけでした。

そういうセコセコするのがいいのか、のんびりしながらしっかり働くのがいいのか、何だか昔の林業の方がいいような気がするのは、ボクだけでしょうか?

kitajin
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